「ゲイ」になろうとしたゲイ

 若い頃うまくいかず迷走していた私は、ゲイらしさに救いを求めようとしました。

 ゲイらしいゲイになれば幸せになれるような気がしたのです。オネエ言葉でものを考えてみたり、吉原炎上なんかの作品を”履修”してみたりしました。パッとしない自分でもゲイの一員という気持ちを味わいたかったんでしょうね。結局内面をどうこうしても外見を変える事はできず、特に人生が良い風に変わると言うことはありませんでした。むしろ諦めた後も生活で後遺症が残り困ってしまう始末。   

 

 理想のゲイらしいゲイとは、華やかに自由を謳歌する存在でした。もっと言うとヤリ◯ンパリピこそがゲイの目指すべき姿で、そうならないといけないと思ってました。寿命短そうなのも、人生太く短くがかっこいいとか思ってました。   

 

 残念ながら私はそんなゲイの対極の存在として、細い人生を歩んでいくしかなさそうです。別にああなる必要はないと思うようになった今でも、ああいうゲイだったら今頃どんなだっただろうと時々考えてしまいます。

 ゲイメディアは見ると疎外感を感じるので避け気味です。ゲイニュースで明るい話題があると気持ちが軽く高揚するのは否定できないのですが。